自由なブログ

オタク傾向がある妊婦です→産みました。子供とプリキュアを観るのが夢。

親を恨んでも子供の頃には戻れないので自分でなんとかしたい自分のこと

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母のプログラムから抜け出したい

母がよく「自分でできることは自分でしなさい」「なんでも自分でできるようになりなさい」と子供の頃の私に言っていた気がする。

それほど口すっぱく言われた記憶でもないが、素直な子だった私は、プログラムを組み込まれたコンピューターさながらに実行した。親の言葉は回数が少なくても、頭の中には強く残るものもあるんだと思う。

母はどういう意図でその言葉をつかったのだろうか。子供の自立をはかる意味ではもちろんの言葉だし、手のかかる下の兄弟がいたので、そちらに母のリソースを集中するためなのか。真意はわからない。

ただ、これは完全に母の意図しなかったことだと思うが、母の言葉に忠実なあまりか、私はいまだに「人の手を借りる」「他人に頼る」のがへたくそ過ぎて困っている。

わからないことはまず自分で調べるとか、人様に迷惑をかけないとか、そういう自立精神が身についたのはいいのだけど、ちょっとくらいは誰かに頼り頼られるとか、ギブアンドテイクのバランスが上手くないので、他人から見ればどうもよそよそしい人間になっているようだ。

自分のことは極力自分でやろうとしてしまうので、自己完結して結果が荒削りだったり、手一杯になってひとりであたふたしたり、要するに要領が悪いときがままある。

自分でさして努力もせずにすぐ他人の手を借りたがる人をみると「なんで自分でやらないの」と反発心をもってしまうことがある。大きなお世話だよね。

ただ、職場とかで、忙しい時に上手く他人に協力を仰いで、周りとの信頼関係を築くのが上手な人を見ると、心底「得な性格だなあ」と思ってしまう。

何かあると騒いで上手く周りを巻き込み、「●●さんはこれが得意だよね」「●●くんに頼んで良かったわ」「こないだ助けてくれたから」を心から言える人が裏山しい。

いや、もしかしたらその人だって性格じゃなく、仕事上仕方なく演じているのかもしれない。そうするために何がしかの努力、インプットをアウトプットに変換実行する努力をしているのだとしたら、私も見習っていきたい。

 

私は「ギブ」した人にうまく「テイク」を出せないので、なぜか損した気持ちになってしまうのを避けたくて、最初の「ギブ」からためらってしまうこともある。なんてこった。書いてて気づいた。こういう気づきがあるからブログって有用ですよね。

たとえば私の持っている物とかお金をあてにして頼られるのはいや。私の能力や人柄を信頼しての依頼なら、私の役目だと思って喜んで引き受ける。それと、普段それほど親しくないのに頼るときだけ頼ってくる人もいる気がしている。「この人なら頼みやすい」ならいいんだけど、「こいつなら怒らない」みたいな、ちょっとナメた感じはいや。なんでかわからないけど、そういう違いってわかる時がある。

こういう自衛の気持ちもあってそれ自体を避けていると、益々ギブアンドテイクのバランスを保つのがへたくそになっている。

このへたくそ加減が全部、母の言葉に端を発しているのなら母を恨むこともできよう。ただ、全部が母のせいではないと思うし、自分の生まれを呪っても明日は何も変わらない。

いい年なのにいまだに「お母さんの言いつけ」を守ろうとする自分の心がいやだ。お母さんの言うとおりにしていれば世界は安泰だなんて、もうとっくに違うことはわかっている。私はもっと、他人と気安い関係になりたい。

そして私も結婚して母とは離れているから、私を育ててくれる人はもういない。夫や夫の親戚、職場の人、友人を見て学び、トライしていくしかない。

 

父親の嫌いなところを自分も真似ていたというホラー

私の父は気持ちの出力が上手でないので空回りばかりしている。それはひとえに相手・外の世界とのコミュニケーション不足によるものだ。結婚してから年1回は帰省するようにしているが、何度かの帰省を振り返って気づいた。

料理にたとえると、たとえ料理下手でも相手に食の好みを聞いたり、途中で味見してもらったり、作業を分担したりといった過程を経て一緒に作り上げるのと、料理が下手なくせに一人だけで「多分こういうのが好きだろう」と想像したものを、完成してから目の前に出すのと、食べる相手はどちらが安心して食べられるか。

上手く例えられていないかもしれないが、前者のほうがうまいコミュニケーションだと思う。父の場合は、自分の中だけで増幅した気持ちをいきなり言動や物にして出してくるので、受け手のほうは置いてきぼりというか、口を挟む余地がない。「はあ」と言って受け取って、終わってしまう。誰の手も借りずに、完成された結果を用意したい気持ちはわかるけど、そこに相手の気持ちはない。

相手を気遣っているようでできていないという哀しさだけが伝わってきてしまい、受け取り手の私としてはむげにもできず、苦笑いしかできない。拒否や否定をすれば、「俺はこんなにお前のためにしたのに」と心の中で逆ギレして拗ねてしまうのもわかっている。

なぜなら私も父と同じ、似ているからだ。だから嫌いなのだ。父にもいいところはある。でも私がなんとかしたい自分の性格の源流だと思うと好きになれない。この流れを自分のところでせき止めたい。もし私に子供ができても、同じ思いをさせたくはない。

そこまで心の動きがわかるなら、自分を省みてなんとかするのも簡単じゃないかと思えるのだが、これが案外難しい。親の影響が根深いのか、それとも、狭い人間関係の中でしか人との関わりを学んでいないからなのか。

自分に子供ができたときがちょっと怖くなってきたので、なるべく多くの人と関わらせて育てたいと思う。ぼっち体質だけど頑張ろうとおもう。

今まで、世の中の生きづらさは自分が未熟なせいで、大人になればもっと視野が広がり、上手いこと諦観も身について、違和感だらけの世界も馴染んで少しはラクになることを期待していたけど、30過ぎてもちっとも変わらないばかりか、ますます自信が減ってきている。

それは若いときの根拠のない自信で、昔よりは世界のつくりや自分と親のことを冷静に、客観的に見られるようになったからだとも思うので、もう少し自分のことを認めて、自然体でいたいと思う。父の空回りは「なんかいいこと言おう」とか「自分を認めてほしい」といった気持ちで背伸びをしているようだ。

それと、自分に子供ができて、守り育てるべき責任を負うということも、ある意味ブレイクスルーになるんじゃないかと期待している。「母は強し」に私もなりたい。産まれてきたなら、待ったなしで、のっぴきならないことだから、違和感なんてスルーしないと毎日やってられなくなりそうな。PAUSEボタンもRESETボタンもない緊張感がありそうな。まあ、実際そうならないとわからないけれども。

 

そんな私の最近のテーマソングはこれ。 

爽やかに明るいこの歌のように毎日やっていきたい。

富野おじいさまの励ましたい「若い世代」から私はもうはみ出してるかもしれないけど、アニメはいい気分転換になるし、ストレス解消の助けになっている。

 

この記事は230日ほど前に下書きをはじめて、ようやく書きたいことを書ききった。

自分の中身を振り返るってすごく辛い作業だった。自分の考えが幼稚だったり浅はかだと思えることも確認しなければいけないから、苦しいけれど、書くことによって自分の無意識が客観的に整理されたし、またいつかモヤモヤしてきたときにこの文章を読んで、言葉で認識することで、目的がクリアに見えて迷わずに行動できる気がする。

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